ベストフレンドでライバルでもあった弟が亡くなってから早くも11年が経ちました。
弟の洋風墓石の正面には「翔」、その下に「ありがとう」と刻まれています。
今回、「翔」という言葉がドンピシャの世界を飛び回る商社マンであった弟が、「ありがとう」という言葉を残す人生を歩んだこと。
それが僕にとって悔いのないサラリーマン人生を送ったうえで最適なタイミングでリタイアできたことにつながったという運命めいた話です。
ベストフレンドになった理由
僕たち兄弟がベストフレンドになった理由は、南米で生活していた子供の頃の環境のせいです。
僕の住んでいた都市は、日本人学校は中学校までしかなく、高校に進学する前に帰国する子女が多くいました。
そのため、僕と同じ学年の日本人高校生(男性)は数える程度です。
そんな仲間とサッカーをして遊ぶにも人数は少なく、中学生だった弟もやがてその輪に入るようになりました。
学年が違えど同級生のように仲良くなります。
運動をした後も、仲間が集まって食事や雑談をする時に一緒に過ごすようになりました。
それこそ中高生の男子にありがちな、バカ話や猥談ばかりです。普通の兄弟では交わさない話題も友人のように話す関係となりました。
以降も、同じ大学に進学し、合コンも一緒に参加し、弟も僕の真似をしてサーフィンをやり、サーフトリップもしました。
同じ屋根の下に暮らしていたので、深夜まで布団のなかで語り合ったり、悩み事を相談したり、ベストフレンドと同居している感じでした。
ライバルとしての弟
お互いが国際的な仕事がしたいと、僕はIT業界に、弟は商社に進みました。
道は違えど共通する使命を感じていました。
僕よりもはるかに自由奔放で奇想天外なことをする弟は、不可能と思われることをよく突破し大逆転をしていました。
ダントツにイケてるオーラで一瞬で人を味方にしたり、抜群の調整力で某国の大臣級の訪日対応をしたり、彼の仕事ぶりを聞いていると、そのダイナミックさにはいつも脱帽でした。
取引先の女性も随分と味方になっていたようです。
僕が持ちえない超人的な能力を沢山持っていた弟を見ていると、自分も仕事を頑張ろうという励みになりました。
頼もしいライバルでもありお互いを理解するベストフレンドである弟は、僕と違う商社マンの道を歩むので、彼の視界を通して自分も商社で働くかの疑似体験となります。
一心同体の盟友であるが故に、彼の経験であり成長は、自分のことのように喜べました。
弟の癌の発覚と戦い
もう15年も前ですが、当時、南米で勤務していた40代になった弟から「たった今、現地の病院で診察し癌の疑いが見つかった。明日急遽帰国する。」と電話がありました。
住んでいた家はそのままで、翌日のフライトで緊急帰国をした弟は、2度と南米の自宅に戻ることもないまま2年後に亡くなりました。
ゴルフで真っ黒に日焼けした健康そうな弟が帰国してきて、日本の同僚たちはまさか癌とは信じられなかったと言います。
現実はステージ4の大腸がんです。
彼は病気について徹底的に調べ上げ、担当医と専門的なことを議論しあって治療方針を決めていました。
あとから先生には「彼は勇敢に癌に立ち向かい、意見をしっかり持ち、自分と議論をしてきたので、共に病いと戦う盟友でした」と先生が涙を流すほど友情が芽生えていたのです。
そんな弟が、死ぬ前に残した言葉が「ありがとう」です。
ありがとうの意味
弟は自分の死を覚悟したとき、人生を振り返り、楽しかった思い出を私に語りました。
京都の鴨川で一緒に遊んだ子供の頃の思い出から、海外生活、そして海で過ごした時間。
子供のころからいろいろなものを共有した弟は僕のベストフレンド以上の大切な存在です。
そんな弟が死ぬ間際「おにい、ありがとう」と僕に呟きました。
その言葉に弟の人生の全てが凝縮されていました。
全力で生き抜いた弟にとって、人生は幸せに満ち溢れていて、感謝に値するものだった。
沢山の人に支えられ、恵まれた人生を歩んで、自分はとても幸せだったと。
人生の幸せの総量
弟が死に直面し人生を振り返った時、幸せの思い出話を沢山話してくれました。
40代そこそこの短い年月しか生きてこなかった弟が、沢山の幸せを持ち、その総量は100歳まで生き抜いた者に劣ることはないとさえ思え、僕は救われた気がしました。
そして最後の「ありがとう」という言葉が、弟の人生も、そして弟の妻、母親、僕の心も救ったと思います。
そんな経験もあってか、弟に恥じない会社生活を全うするまで、たとえ40代後半で経済的自由を得ていてもリタイアするのは逃げるようで踏みとどまりました。
弟からの勇気と経済的自由がもたらしたもの
僕にとって最後の7年ほど、経済的自由を得てからの仕事はがらっと変わりました。
自分が仕事を天職だと思えるきっかけにもなりました。
経済的自由がゆえ「いつ辞めても構わない」と捨て身の勇気を持てました。
弟に恥じないよう自分の信じるものごとを悔いなく思い切ってやってみる、との気持ちで仕事をしていたので、自分の立場が悪くなるとかよりも、会社にとって正しいと思うことを本気で取り組めたと思います。
弟のおかげで自分の勇気のキャパや能力を超えるような仕事がサラリーマン人生の最後のポジションとして与えられ、それは自分がやりきらなければいけない、もしかしたら弟の協力もあって得た役割であり宿命だと思えたのです。
2022年3月、悔いのない会社員人生を、自分らしい人生を全うできたと思って辞められたことは、弟のおかげなのかもしれません。
弟への報告
3月末にリタイア後、すぐに桜が満開の弟の墓の前で報告をしました。
「おまえから勇気をもらって、俺は精一杯、恥ずかしくないように会社人生を全うできたよ。お前も天国から見ていて知っているだろう。俺はこれからアーリーリタイア人生をオモッキリやってみるし、お前に負けないぐらい幸せの総量を作っていくよ。その手土産を沢山持っていくからビビるなよ。」
そんな報告をしながら、弟の分もセカンドライフを楽しみつくすぞ、と心に誓いました。
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