今日、サラリーマン時代に憂鬱だったことを冷静に振り返ったら、思いもよらない気づきがありました。
サラリーマン時代の憂鬱なこととは、ずっと「苦痛なものごと」だと思っていました。
例えば、
気が乗らない日の出社。
雨や雪の日などの通勤。
面倒な上司への報告。
2次会まで拘束される飲み会。
結論を出さない会議や無意味な資料作り。
・・・
でも、本当に憂鬱なのはそういったものではないと気が付きました。
サラリーマン時代の最大の憂鬱とは評価されること
サラリーマン時代に最も憂鬱だったのは、実は「評価されること」でした。
つまり、
気が乗らない日でもきちんと出社する。
雨や雪でも会社をさぼらないこと。
面倒な上司にきちんと報告すること。
飲み会に2次会まで参加すること。
結論を出さない会議や意味ない資料作りで時間を無駄にしても我慢すること。
これらの苦痛を受け入れて無理にでも対応するのはすべて「評価のため」です。
頭では「評価は自分の成果や業績、能力で査定される」とわかっていても、どこか「苦痛や理不尽を受け入れずに自分勝手に働くと悪い影響があるのでは」と感じていました。
そんな思いから、無意識に「苦痛や理不尽から逃げてはダメだ」と自らを律することをしていたと思います。
評価を受けることそのものが憂鬱というよりは、そうした評価のために苦痛なことや無意味なことまでを気にかける「評価という心理的な圧」が憂鬱なのです。
評価されることを喜ぶ人
実は世のなかを見渡すと「評価をされたい人」がいるようです。
それは、自分の存在や能力、努力を他人から認めてもらいたいという「承認欲求の強い人」です。
例えば、専業主婦の人が「家事をしていても大変なわりに誰からも評価されない。」「会社勤めはきちんと評価されるから羨ましい」といったコメントもちょこちょこ見かけます。
単純作業の労働であったり、単独で業務をする人も、人に感謝されることを感じにくいゆえ、評価されたいということを聞きます。
評価というフィードバックは、自分の存在価値を確認したいというような状況では良いのかもしれません。
自分の存在価値を確認したくなかったのか?
そう考えると、評価という心理的な圧が憂鬱と感じる僕は「他者から認められたいという承認欲求のためか?」と自問してみました。
たしかに「上司に評価される」「会社に認められる」という「他者からの承認欲求」はありましたが、サラリーマン人生の前半だけです。
後半になればなるほど他者評価が気にしなくなったと思います。
「自分がこれでいい」と納得できるような「自己承認」があればそれで充足できていました。
自由気質ならではの感性かもしれません。
僕がやりたいことと、会社が求めることが、うまく一致していたので、「会社の評価」はあまり気にならず「自分の納得する成果」に集中できたとも言えます。
それでも他者評価という圧を感じ、苦痛や理不尽を受け入れていたのは、自分の納得する成果を組織の中で出すために、チームを乱さない360度の気遣いというものだったと思います。
アーリーリタイア生活での評価とは?
今のアーリーリタイア生活について「どういった指標で評価するか?」を考えました。
もちろん「アーリーリタイア生活監査部」があり、他人から評価されるなら、またもや面倒で「苦痛」を感じてしまいそうです。
ですがそういった監査部もなく、自分自身が決めた基準で、自分の思うままにリタイア生活を設計も評価もできるので、これこそ本当に気楽でストレスもありません。
評価指標を定めるとすれば、それは「自分らしく生きる度合い」となります。
こんな感じです。
高評価:自分らしく生きて、人に幸せを与えられる
中評価:自分らしく生きて、自分だけが幸せになる
低評価:自分らしく生きることができていない
終わりに
経済的自由を得て、自分自身がものごとを決定したり自己評価だけで生活するようになると楽と感じます。
その理由は「他人から評価をされる」という足かせも無ければ、評価をされないとリタイア生活を充実できない、というものでもないからです。
サラリーマン脳で動いていた会社員時代は、評価されることや協力を得るために理不尽さも受け止めていました。
でもそうした気遣いは調和を乱さないという洗脳の一種でストレスですね。
経済的自由を得て、そんなサラリーマン時代の「無意識の自己強制ストレス」に気が付きいた次第です。
人間関係に恵まれていたことや、自分がやりたいことと会社が求めることが合致していて、理不尽さも耐えられていたのが、今から思うとサラリーマンをやり切れた奇跡だったかもしれません。