会社での経験でリタイア後にも役立つものがあります。
その7つ目にあげるのが不自由です。
結果的に、サラリーマン時代に最も辛かったことは、個々の仕事の大変さやプレッシャーというより、不自由な環境そのものだったと思っています。
不自由とは、例えば自分の仕事も、そして勤務場所だって会社で決められる。
こうした「自分のコントロールが及ばないことが多い(=不自由)」というものです。
つまり「サラリーマン時代の不自由さはリタイア後の自由を味わうことにつながる表裏一体のもの」ゆえ、サラリーマン経験はリタイア後につながるといえます。
今回はサラリーマンの「不自由」とリタイア後の「自由」について綴ります。
サラリーマンの不自由さ
サラリーマン時代は自分のやるべき仕事も自分で決められなければ、努力がいかに報酬に繋がるかも、全ては会社の人事や評価などにお任せです。
もちろん、休みたい時に休めなかったり、一緒に働く人だって自分で決められません。
こうした不自由さは、サラリーマン生活を送る前から想定内のことで、実際にそうした場面に直面しても「しょうがない」とか「運が悪い」といったことで片づけていました。
そう片付けながらも、その不自由さを経験するごとに、知らず知らずに「自由の渇望」の貯蓄が始まったのだと思います。
まあこれは貯蓄というより「負債」というものかもしれません。
リタイアの自由さ
そうしたサラリーマン生活を過ごすなかで、経済的自由を得ると、その先は仕事をするか否かも自己決定できます。
もし仕事をしなければ、それに応じた時間的自由も地理的自由も得られます。
こうした「自分で決める」という本来はたわいないものが、これまで不自由があったゆえにできずにいたので、かえって「自由の象徴」とまで感じます。
リタイア後は、何時に起きるか、どこに行くか、何をするか、の隅々まで決められる自由に「リタイア」を実感しました。
そんなリタイアの自由を感じるごとに、サラリーマン時代の不自由の負債が帳消しになっているような気もします。
自由と不自由は表裏一体
こう考えると、自由と不自由は表裏一体で、不自由を先に経験しなければ自由っていうものを感じられないのかとも思います。
ここまで考え出すと、人生の不自由と自由もそうであれば、不幸せも幸せも同じことかもしれません。
ただ問題は、それがゼロサム(双方を足すとゼロになる)のかまではわかりませんが、少なからず不自由が自由への橋渡しにはなっています。
終わりに
以上のように、サラリーマン時代の不自由さはいずれ清算されると思えば、多少、サラリーマン時代は不自由さを寛容する気持ちが生まれるかもしれません。
これは仕事に限らず「勉強」も同じことだと言えます。
子どもから「なぜ勉強するか?」って質問を受けたことがある人も多いかもしれませんが、その解答の1つに「自由を得るためには勉強が必要」と、言えるかもしれません。
まあ子供にとっては自由渇望量は少ないので、ピンと来ないかもしれませんね。
自由というのは、いろいろな経験をしていくなかで最後に味わうものにしたほうが、合理的なのかもしれません。
さて今回、7つのシリーズを書きましたが、締めくくりはこうした「自由」の本質みたいなことで終わりとします。
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