FIRE生活では好きなことを思う存分できます。
「自由」は常に味方であり裏切ることはありません。
ところがサラリーマン時代の「自由」は気まぐれです。
「自由は味方だ」と気を許していると、時に「自由から逆襲」を受けます。
今日はサラリーマン時代の「自由が逆襲する瞬間」のエピソードを綴ります。
サラリーマン社会の自由とは
当然ですが、仕事は上司や組織による一定の管理下に置かれます。
その管理レベルの粒度はグラデーションがあります。
それは、
・プロセスも細かく進捗管理する(=マイクロマネジメント)
・プロセスは問わないが結果を問う(=マクロマネジメント)
というものです。
そんな粒度の違いは上司の気質、組織文化、あるいは自分自身の特性で変動します。
僕は自由人気質なので、上司への進捗報告も最低限にしていました。
面倒だから・・。
そうこうするうち、わりと自由奔放に仕事をさせてもらえるシメシメな居心地を手に入れます。
マクロマネジメント下での緩い管理下に置かれ自由度の高い仕事を手に入れます。
ですがそれが仇で「自由の逆襲」を受けます。
自由の逆襲エピソード
それは20代後半でした。
僕が自由に仕事をして、たまたま上手くいった時、気を利かせた上司から呼び出しを受けました。
「xxへの赴任の話がある。新しいポストで新規事業開拓だ。」と聞こえの良い話です。
これはチャンスかと思いきや上司は「だから思う存分、自由にやっていいぞ!」
「3年以内に売り上げをxxにしたら戻って来い!やり方は自由だ!」
「・・・・」
結果、「自由」という名の1トンの「重し」を首根っこにぶら下げられ島送りです。
ゲーテは云ふ:
「自由でないのに自由であると考えている人間ほど、奴隷になっている。」
「自由の逆襲」の構造
会社人生というのは「目標を定め、超え、成長する」という永遠スパイラルの自虐芸人を演じることです。
異動という潮目の変化で、次なる「目標達成」という責任が降ってきます。
それが「自由の逆襲」です。
自由と責任は陰陽のセットなので、長いサラリーマン時代は「自由>責任」という享楽期と、「自由<責任」という苦悩期が、陰と陽、交互に訪れます。
サラリーマン社会の自由循環法則(造語です)というものです。
ホワイト企業とはいえ先のエピソードのように「ドS気質の上司」が天井近くにバーを動かし僕に「飛び越えてこい」と異動を言い渡すのです。
それが「自由<責任」という苦悩期の始まりです。
「自由の逆襲」に平伏すな
そんなサラリーマン時代の「自由の逆襲」に平伏してはいけません。
会社組織の理不尽は当たりまえで、自分にだけ仕向けられたイジメ(*)でもありません。
*ブラック企業、ブラック上司は例外あり。
そんな理不尽の裏をかくのが「自由の逆襲への強襲」です。
サラリーマンの「例外」という逃げ道での逆襲です。
自由と責任はセットゆえ「好き勝手に自由にやるが、なんら責任は取らない」っていのはナシね・・というのが資本主義社会の「原則論」です。
ですがサラリーマンにだけその原則論に「例外」という逃げ道があります。
なぜって、自由にやったところで責任を取らされますか?
「会社の赤字をおまえのポケットマネーで返済しろ」とは言われないのです。
それがサラリーマンです。
資本主義ルールというビル内の階段を永遠に上がり続けないといけませんが、ほんの少し、サラリーマンでしか避難できない「踊り場」という場所があるのです。
それは「会社の奢りで自由に新規事業をやれば良い」という場所です。
当たるも当たらないもやってみなければわかりません。
でも、当たらなくても負債を負うことはなく給与は払われます。
終わりに
サラリーマンの受ける理不尽は幾ら嘆いても避けられません。
「指示されたくない!目標を強要されたくない!」という不干渉境遇を要求し治外法権を得ることはリーマン身分では不可能です。
ドS気質の上司による放置プレーで目覚めた僕は(そっちには目覚めていませんが・・)、そこから踊り場を渡り歩く自由人を決意しました。
「鎖につながれて正しく歩むよりも、自由のうちに誤って歩むほうが人間にとってはましである」(トーマス・ヘンリー・ハクスレー)
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