FIREは「経済的自立と早期リタイア」という意味です。
そこに「早期リタイア」と綴られながらも、実際は広く解釈され「会社を辞めたあと自分が好きなことを仕事にしている」という仕事従事者も「FIRE(セミリタイア)をしてる」と世間で認識されています。
好きなことを仕事にするというのも多岐に渡り、投資運用に時間を費やしたり出版執筆をするなど、人によってさまざまです。
それでもFIREになるわけです。
ということで、今日はセミリタイアの広い定義を自分の経歴に当てはめて考えてみました。
結論としては「矛盾が出た」という点を綴ります。
セミリタイアとは
セミリタイアは「好きな事を仕事にしつつも、その仕事に精神的自由も時間的自由も損なわれない自由な状態である」というのが僕の理解です。
周囲からみて明らかに仕事をしているようでも、本人にとって時間的自由も精神的自由も損なわれていないと感じる限りは「FIREとして成立する」ということになります。(これはFIREじゃないという意見もありますが。)
また「仕事の形」は問われません。
会社や組織に属したり、パートだったり、個人事業主であったり、個人事業主登録をしない個人であったりなど、働くスタイルは千差万別です。
こうした本人による申告主義で、就業形態も自由という解釈の広さがあるわけです。
ならば自分も完全リタイア前はセミリタイア申告できたのではないか?と、過去の経緯を辿ってみました。
自分のケースに当てはめた
僕は40代後半で経済的自立をしてからも会社を辞めずに働いていました。
それもセミリタイアでは?と考えてみました。
まず「好きなことを仕事にしている」に該当します。
なんだかんだ仕掛中だった仕事の案件は、経済的自立をしたからといって手放したくはなくて。会社を辞めませんでした。
最後の結末まで見届けたい気持ちで(オンラインゲームを途中で止められないような心境で)そこから8年ほど働いて早期リタイアしました。
その期間は「精神的自由もあった」と断言できます。
なぜなら仕事が嫌ならば「辞めてやる」といつでも言える(=働かないことを選択できる)状態だったからです。
それに「時間的自由もあった」と思います。
会社は当時から仕事量に対する配慮をするようになって以前に比べて労働時間が減っていたからです。
なので好きな仕事をしていながら精神的自由も時間的自由もあったと言えます。
もちろん僕のケースはたまたま仕事に恵まれたことも大きかったとは思います。
自分のケースはセミリタイアと言えるのか?
ということで「好きな仕事x精神的自由x時間的自由」といったFIRE(セミリタイア)の成立要件を満たしている気はしますが、それが「セミリタイアだったか?」と考えると、どこかしっくりきません。
なぜなら、同じ仕事を続けている真っ只中でたまたま「経済的自立をした」だけで、だからと言って急に「この時点から仕事をしていてもセミリタイアだ」となるとも思えないからです。
同じ会社で、同じ仕事を、同じ役職で、同じペースでやっているわけなので・・。。
となると、精神的にも時間的にもセミとタイヤと同じ状況ながら、何が違うかを考えました。
セミリタイアの矛盾
大きな違いはその「順序性」にあるのかもしれません。
世間でのセミリタイアは、仕事を一度辞めて「早期リタイア」を達成してから、改めて自分の好きなことを仕事にするわけです。
僕の場合、仕事のペースも負荷も変わらずの状態ゆえセミリタイアとは言い難いと思います。
大事なのは、自分のなかで「仕事を辞める」といった決着をつけることにあるのかもしれません。
終わりに
こう考えるとFIREの定義は難しいものです。
もちろん、FIREの定義を世間共通化させたり、精緻に運用することが必ずしも必要だとは思いませんが、自分なりのFIREの意味や価値は持っておいた方が良いのだと思います。
僕の場合は完全リタイアをもって「仕事を辞める」との明確な線引きをして「セカンドライフ」を始めたのですが、そんな仕切り直しがFIRE生活をメリハリもって送る上で欠かせないものでした。
やはり「お金が〇〇まで貯まった(=経済的自立)から早期リタイアする」いう経済的な区切り以外のものも持つことが良いのかもしれません。
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