FIRE(セミリタイア)の認定条件はとても曖昧です。
なので「FIREしました」と自称するなかには世間で「それってFIREか?」と疑問を持たれてしまうケースもあります。
その疑問を呼ぶ代表例として2つの極端なケースを取り上げました。
①FIREを達成しながらフルタイム以上に仕事(専業投資家なり執筆家なり・・)に時間を費やす場合(=それって脱サラでしょ)
②FIRE(セミリタイア)を達成したとはいっても実は嫌な仕事を週2~3日実施して経済的自立しきれていない(生活に必要な収入を得ないといけない)場合(=それってミニ社畜でしょ)です。
今日はそんな2つの極端な例から「FIREの成立条件」となる「基準」やその「価値観」について考察します。
FIRE成立の条件は何か
この2つのケースを考えるうえでは、FIREが成立する条件より、成立しない基準をピンポイントで検討するとシンプルになりました。
つまり、
・①の「FIRE(セミリタイア)してもフルタイムで働いている」というケースがFIREに該当するか疑わしい理由は、フルタイムという「時間的拘束の過多」といった基準で判断した場合で、
・②の「FIRE(セミリタイア)してもイヤな仕事に従事している(ミニ社畜)」というケースについては「(イヤな仕事に)精神的に拘束されている」とか「(イヤな仕事に)経済的に依存している」、
といった基準で判断するからです。
それぞれについて一般的見解や当事者の反論も想定し個別にみていきます。
FIREしてもフルタイムで働くケース
最初のケースでは、FIRE達成後、投資・執筆・講演・コンサル等々にフルタイムやそれ以上に従事している場合です。
FIRE否定派
FIRE否定派は「FIREをしたといってもフルタイム以上に働いている」といった時間的拘束を基準に、それがFIREとして成立する時間的自由に欠けるのでFIREではないと主張するものです。
本人の反論
それに対し当の本人はおそらく「それでもFIREだ」となるのでしょう。
なぜならそれは「好きでやっている」とか「楽しいからだ」という理由です。
たとえフルタイムで従事していても、それは仕事ではなく趣味に夢中になっているのと同じであり、いわゆる仕事のような苦痛も無く時間的拘束を受けている感覚は一切ないといった反論です。
論点と私見
ここで問われるが「仕事と趣味の境目が何か」といった争点です。
僕の個人的な見解としては、そもそも法人なりの枠組みで取り組んでやっている「枠組み」なら仕事ですし、あるいはお金をあてにしている「目的」なら仕事だと捉えています。
なので執筆、講演、コンサルなどを個人として無償でやるというのならそれは趣味ですし、もはやスポーツや読書に没頭する趣味とある種同列と思えます。
それゆえフルタイム的に時間を費やしていてもFIREとして認めてもいいのではないかと思います。
なお「投資」については別枠で捉えていて、FIRE生活を維持継続する支えとして投資や資産運用は必須なるインフラであり行動だと思っています。
ただし個人投資家として起業して実施しているとか、投資においても心身を削って大変な思いで売り買いしていればもはや「専業投資家」として脱サラしたものだとはみなしてしまいます。
追加事項
なお、世の中には「たとえ(仕事っぽいことを)趣味と言ったとしてもそれは詭弁だ」とか「仕事を趣味のように演じながらフルタイム従事するならそれってFIREじゃない」と捉える人がいるのも理解できます。
その背景にはFIREは仕事(的)なものを一切排除し「時間的自由を満喫するものだ」という価値や信念を持っている表れだったりします。
まあそれでも当の本人は「執筆や講演が趣味だから時間的自由として満喫している」と言えてしまうので、もはやそこ(仕事か趣味かの争点)は証明が困難で平行線かもしれません。
ちなみに僕がブログを毎日更新することは仕事と思っていません。でも文章を書くのが苦手な人から見ると「毎日時間を使ってそんな大変なことをやり続けるのなら仕事と一緒じゃないの?」と思う人もいるのでしょうね。
難しいところですね。
FIREしてもイヤな仕事に従事しているケース
2つ目のケースは、サラリーマンをしている間に経済的自立をほぼ達成しフルタイムから大幅に労働時間を減らして、いわゆる「セミリタイア」をするわけです。
そんなセミリタイアはFIREの一部として認識されています。
FIRE否定派
それでもFIREではないと否定する派は「例え週数日の労働でも、それが不本意な仕事でストレスを感じるのであれば、生活のために仕事をするミニ社畜であり、もはやそれは”FIREだ”と呼べないのでは?」といったものです。
つまりは精神的拘束の度合いや経済的依存状態といった基準でFIREではないと捉えたりします。
本人の反論
それに対し当の本人はおそらく「それでもFIREだ」となるのでしょう。
なぜなら本人の基準からすると「フルタイムの時のストレスに比べれば微々たるもの」とか「全体の時間配分として辛い仕事時間より楽しい自由時間が多いから」といった精神的拘束に基づく反論があります。
「生活のためでは?」という論点も「働かなくても節約生活をすればやりくりできる」という論点での反論もあるかと思います。
論点と私見
つきつめると、その「イヤな仕事」の時間なり経済的な依存の有無は、本人の自己申告でどうにでも主張できるものであり、つまり主観に依存することになります。
なのでトータルとして「FIREとして期待するレベル」をもって、それを超える精神的負荷があるのかとか、経済的依存に該当するとか、そんな「主観」で変わってくるものです。
僕の個人的見解としてはセミリタイアは原則、イヤな仕事を一切せずにいる自由さに価値があると思っているので、その「FIREと呼べる基準レベル」はかなり厳しめかもしれません。
なのでセミリタイアだとは言っても、ストレスだったり嫌いなことを仕事にして無理をしていればセミリタイアではないと思いますし、ましては生活のためにやっている部分があるのなら、なおさら「それはFIREなのか?」とは考えてしまいます。
やはりFIRE成立の基準レベルは個人差があり、他人が決めつけたり押し付けるものではない(本人がどう思うかで決まる)と思ってしまいます。
追加事項
なお、僕以上に「ストレスある仕事を少しでもする時点でFIREではない」とか「生活のためにサラリーマンとして雇われ身分で働くのはFIREではない」と思う人がいるのも理解できます。
そうした人には、FIREとは「イヤな(仕事)から完全解放されることだ」という点に価値をおいている場合です。
そういう考え方もあると思います。
終わりに
以上、FIRE(セミリタイア)と呼べるか微妙な2つのケースについて考えました。
何をもってFIRE成立とできるかは、こんな極端なる例だと判断が難しいことがわかります。
たそれを「その人次第」と言った瞬間に何でもかんでも自分がFIREといえばFIREになる問題も認識しています。
それだけ多様な生き方がある日本の社会を喜ぶべきもので「ここまでがFIREでここはFIREではない」といった明確なFIREの線引きに拘ることはさほどの意味がないのかもしれません。
線引きよりも「FIREとして譲れない基準や限界点」を具体的に考えるきっかけとして、この記事がお役にたてたら幸いです。
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