僕は「タイパ」といった考え方は、FIREをする目的においてはマイナスに捉えています。
なぜならそんな効率性を求める考え方が「FIRE失敗」の原因に結びつくと考えているからです。
よくFIREをした人が「FIREは暇だ」と嘆くことがありますが、そうした人はFIREで得た有り余る時間のタイムリッチな豊かさを享受できる感性が育っていないケースが多いと見受けられます。
なぜならタイパで「結果」や「フルーツ(おいしいところ)」だけを享受しようと効率追求なる行動ばかりしていては、そんな「タイムリッチな豊かさ」を感じる感性が育たないからです。
今日はタイパとFIREの相関について綴ります。
タイパとFIREの本質
ご存じの通り「タイパ」とは「タイムパフォーマンス」の略で、2022年、三省堂の「今年の新語」でもトップに選ばれました。
そんな最近のトレンドを体現する言葉である「タイパ」は「あることにかけた時間から得られる見返りや利益」という意味です。
なので「タイパが良い事例」としては、
・倍速視聴:動画やテレビ番組などを倍の早さで視聴すること
・ショートコンテンツ:粗筋だけ分かるように編集されたファスト映画や本要約チャネル
・時短グッズ:ロボット掃除機などの家電から家事代行などを活用すること
・音楽のさび:音楽のさびのみを聴く
などがあります。
こう考えると、タイパとはより最短で「結果」や「フルーツ(おいしいところ)」を享受することだと言えます。
ですがFIREの本質ってそれとは少し違います。
FIREがもたらすのは「時間」ですが、そうして得られた時間を「豊かな資源」と感じる心が生まれなければFIREの意味はありません。
つまりFIREそのものは効率性を求めることとは対極にあるわけです。
FIREに必要なのは、結果や効率ではなく、無駄とも思える時間そのものに豊かさを感じられたり、フルーツに辿り着くまでの過程にも楽しさを見い出せる感性や技能です。
つまりはFIREは「有り余る時間のタイムリッチな豊かさを享受できる感性」があってこそ成立するのです。
タイパを生み出す社会の問題点
そもそもなぜ「タイパ」が流行するか、その社会構造も理解しないとこのタイパとFIREの関係性は解けません。
タイパが流行するのは、そもそも「大量のコンテンツ」がネット上にあって、誰でも隙間時間を使ってスマホでコンテンツに容易にアクセスできるからです。
自分の限られた可処分時間のなかで全ての情報に触れることはできませんし、そうなると少しでもコンテンツに触れようと欲張れば欲張るほど、限られた時間で最大効率を求める「タイパ」なる技術が求められるのです。
つまりタイパは溢れる情報を取捨選択する技法とも言えます。
ですがその技法には大きなリスクがあるのです。
実は「情報」しか得られず肝心の「体験や感動」を疎かにするリスクです。
体験や感動が生まれる構造
体験や感動が生まれる構造って、デジタルではなくアナログな世界が多いのです。
ドラマや映画をデジタル世界で倍速で観ていても、それって単に「情報」をスキャニングしているだけです。
そこで交わされる人の言葉や表情、描写される風景など、ありのままの時間で受け取ってこそ、そこに存在するリアルの「体験」や「感動」に触れることができます。
音楽だって昭和世代の僕にとってはカセットテープに録音された「ノイズ」にも感動があるのです。(カセットを知らない世代もいるかもしれませんが・・)
好きな音楽をレコードから録音するときに入り込む「プチ・プチ」とした音楽の横のノイズもあって、あの時、好きな音楽を、カセットに収めるという自分の高揚感や感動が、そのままノイズとともに時空を超えて持ち運びができます。
なので今も昔のカセットテープを聴くと瞬時にその時代のその感覚が戻るのです。
それってデジタル化されたバーチャルな「完成・完全」っぽいニセモノではなくて、未完成にこそある凹凸感やその瞬間が入り込むからこそ時間を持ち運びできるのです。
極論すると、音声を適度な品質にサンプリングしてCDに収めた時代や技術からあらゆる音楽が無機質になった気もするのです。
デジタル世界やタイパが、「情報」という表面的なものだけにタッチして、なんら「感動」を育まない構造になっていると思うのです。
タイパの罠
それゆえ「タイパが可処分時間を上手に使うタイムリッチな方法だ」と信じる限り、FIREをするのは尚早だと思います。
ちなみに僕はリタイア後、時間効率を重視した考えでは説明できないことばかり沢山しています。
例えばコーヒーを煎れる行為です。
朝、いちいち豆から挽いてハンドドリップすることもタイパ重視からすると「無駄な時間」です。だって全自動コーヒーメーカーのボタン1つを押せばそんな「無駄な作業」は不要ですからね。でもそれでは「ぐりぐり」と豆を挽きながらその感触を手に感じて、そこから作ったコーヒーの味わいが感動なのです。
手作り料理で魚を1から捌くのも、あるいは人によっては1時間ずっと瞑想をする人だっているでしょうけど、そんな人が「タイパ悪い」とは思わないのです。
そんな「タイムリッチな感性」を理解することを遠ざける「タイパ」は違和感がありますし、逆にタイムリッチは「時間効率性を諦める」という矛盾っぽい行為から生まれることに気が付くことが大事です。
ブログだって無駄かもしれない
ちなみに僕のブログも過去2年間、わけのわからない「無意味」とも思える時間を費やしています。
「自由とは」やら「お金とは」やら、世の中に解答のない設問を解こうとしています。
それは解けない問題だともわかっていながらです。
なぜって、そうやって解きにかかるその過程に何か新しい考え方や物の見かたの変化を感じて「豊かな時間」へと変換できるからです。
別に思慮深く生きようといった高尚なる目的ではありませんが、どこか深く考えぬこうとすることを繰り返す中で、自分の考えを修正のうえ修正していくわけですが、そんな積み重ねで培われるのが「洗練」とか「品位」じゃないのかな?と、洗練さや品位に欠けていた僕は思う次第です。
終わりに
タイパの延長戦には豊かな時間を過ごす技能は存在しません。
「タイパ」を疑ってそもそも「何に時間を使うべきか、何が本当に価値あることか」の本質的な問いに自分が向き合うことから全ては始まると思います。
一見。人生の「無駄」や「遊び」とも思えることこそ人生を豊かにすると思っています。
ランキングも参加してます。参考になりましたらポチっとしていただけると励みになります。
↓
にほんブログ村