今年は79回目となる「終戦の日」が過ぎました。
戦争を知らない我々世代の「自由」は戦時中の人のそれとは違いますよね。
この時代の自由は「FIRE(早期リタイア)」に象徴されます。
つまり株式投資や節約に励み、より早く経済的自立を達成しあらゆる束縛から解放されることです。
もし「自由ってなんだ?」と戦時中にマリアナ諸島で命を落とした叔父に聞かれたら僕はこう答えます。
「行きたいところに旅をし、新しい趣味や特技に挑戦し、自分の思うまま自由に生きることです・・」と。
それに対して叔父がどう反応するを想像し改めてFIREについて綴ります。
戦時中からみたFIRE
戦争で命を落とした叔父が僕のFIRE観についてこう答えると思います。
「令和というのはそんな贅沢な自由があるのか。我々が命をかけた甲斐があった。」
「戦時下は生きるために毎日が必死だった。家族を守るため、祖国を守るため、若い少年まで戦地に行って命をかけて戦った。」
「我々の犠牲が平和を作り、誰もが自分の自由を探すことができるなんて素晴らしい日本になった!」
「命をかけた甲斐があった。」
そんな声が聞こえてきそうです。
自由を求める戦い
そんな叔父の言葉を受けると今も昔もある「共通点」を感じます。
それは自由を求める戦いです。
戦時中は敵対する国から祖国や愛する人を守る「生存の自由」をかけた戦い。
この時代は資本主義のなかで「個人の自由」をかけた戦い(?)なわけです。
何から解放されるかの対象が違うだけで、戦時中は貧困や危険からの解放、今の時代は個人として耐え難い苦痛やストレスからの解放との違いです。
目的は違えど「解放のための戦い」という意味では共通です。
身に染みる志し
ですがそんな叔父に対し僕が胸を張って「昔も今も自由への戦いという意味では同じだ」とは言えません。
戦争なんて不幸そのものです。叔父からすると「戦争をしたくない」という選択肢すら選べないそんな大変な時代を生きていたわけです。
それと今の僕だってどこか心の底では「ラクをしたい、好き勝手に生きたい」という本音もあるからです。
いくら「人生においては時間が大事だ。会社に縛られず自由に生きるべきだ・・。」と言ったところで、そんな「べき論」を言える時代にノホホンと生きていることそれ自体が「恵まれたこと」だと思うのです。
戦時下では「祖国を守る」という大きな目的や意味を背負って戦っているわけで、楽をしたいとか自分の好き勝手な自由とか、許さるものではありません。
もちろん昔を過大評価するつもりはありません。
時代が変われば「自由」も違って当然です。
ですが命との引き換えで「残された者や次世代の繁栄」を願っていた祖先の人たちの志にはどこか身が引き締まる思いがあります。
終わりに
この時代に自由だ!FIREだ!と夢を持てることも平和で恵まれているからできることだと思います。
もちろん、戦時中の人の思いが優れてるとか、今は平和ボケしているとか、そんな批判も優劣もありません。
ただ、彼らの犠牲の上で今の自分たちの自由があるわけで、先祖へ感謝や敬意を払いつつ僕たちは謙虚な気持ちで日々を過ごすことが大事だと、そう思う終戦記念の心境です。
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