完全リタイア後に取り組んだ大きなことの1つが「四国88箇所お遍路の旅」でした。
お遍路とは、真言宗を開祖した弘法大師(空海)が修行したとされる88箇所の霊場(四国4県全行程約1,400km)をたどる巡礼です。
とあるきっかけで始めたのですが、3回の四国旅行と、そして先日は和歌山県の高野山・金剛峯寺(真言宗の総本山)に参拝し、88箇所+総本山の巡礼が終わりました。
そんなリタイア生活にはうってつけの取り組みについて感じたことを今日は綴ります。
納経帳と掛軸の朱印
お遍路として訪問したお寺では納経帳や掛軸に朱印を受けます。
かっては参拝者が写経した経文を寺社に納めたそうですが現在はお祈りをして納経帳や掛け軸に朱印と署名をいただく流れです。
掛軸
実際の掛軸がこちらです。88箇所の朱印と中央の空海の上に高野山金剛峰寺があります。
納経帳
始めたきっかけ
これまでサラリーマン時代は、真言宗やらお寺参りに関心があったわけではありません。
普通に観光として寺院や教会を巡ったり建築様式とかには興味があった程度です。
ですがこうしてお遍路を始めることになったのは、父親の遺品から仕掛かり中の納経帳と掛軸(88箇所の半分程度は未完了)が見つかったからです。
遺品整理で、そうしたものを捨てるのも気が引け、かといってお棺に入れてお送りすることも遅すぎました。
そこで自分が残りをやり遂げておこうと思ったわけです。
これが巡業を始めたきかっけです。
真言宗の教義
そして巡業をすると、いわゆる「お遍路さん」の本格的なお遍路スタイル(白い袖付き・袖無しの衣装)をした高齢の巡礼者を多く見かけます。
そして皆さんは本格的にお経を唱えています。
僕は普通の恰好ですしお経もできません。
そんな真剣なる人もいるなか、失礼が無いようにひととおり空海やら真言宗の教義を調べていきました。
ざっと要点はこんな感じです。
空海とは
・空海は平安時代に真言宗の開祖(中国は唐)から密教を学び日本で真言密教を広めた
・和歌山県の高野山に金剛峯寺を建立し真言宗の中心地とした
・四国八十八箇所巡礼(四国遍路)で修行をし巡礼の道を整備した
空海の教えは
・即身成仏(生きたまま悟りを得て仏となりうる)を教える
→浄土宗(死後に極楽浄土に生まれ変わり成仏する)のとは違って「現生の行い」を重視
・悟りを得るには出家して修行をせずとも可能である
→とても開かれた考え方です
・この世のすべてのものは実体がなく「空・無」である
→物事に執着せずまた価値観に囚われにない心の状態(空・無)が悟りに必要
*綺麗なものは人が美しいと決めているだけであり美しいと感じるかも人それぞれという捉え方。
空海の教えから感じたこと
こうした教義を知ると、例えばキリスト教のような「絶対的な神」を信仰し「信じることで救われる」といった従属的?なる考え方とはかなり違ってオープンで自由な教えに感じます。
人間はそもそも自由で精神は豊かだという前提に立っているわけです。(キリストでは人間は生まれながらに”罪深い”から始まりますが・・)
宗教の是非ではなく、感覚的には僕がFIREを通じて「精神的自由」として「お金やら成功やらに縛られたり囚われたりせず自由な感覚でいたい」ということとどこか共通している気がします。
最後の納経(満願)
以上の簡単な報告ですが、父親の遺品からのちょっとした縁がきっかけに僕にとって未知なる世界に触れることになりました。
それこそ1日600キロ以上、レンタカーで山道から海辺から走破しながら教えを調べたり、考えたり、自分のサラリーマン時代を振り返ったり、4回の旅行ではいろいろな思い出があります。
奥深い自然のお寺に行って沢山のセミがものすごい音量で鳴いていたり、綺麗な紅葉も見れたり、ケーブルカーや徒歩で山の上まで行ったりなど、結構ハードスケジュールだったりもしました。
そして最後に行ったのは高野山の金剛峰寺(奥の院)です。
戦国大名のお墓が沢山あり、樹齢何百年も経過した杉の木が生い茂るなかにあります。
そこで最後の納経帳を受けた時は「満願、おめでとうございます」と祝福され、やり終えたという気持ちとなりました。
終わりに
もし納経帳や掛け軸を「不要な遺品だ」と捨てていたらこの経験はありませんでした。
サラリーマンの時に父親の死で「時間は大切だ、有限だ」とも感じ、その翌年にアーリーリタイアをしたわです。
リタイアで時間があるからこそ巡礼もできたわけです。
そんな一連の出来事と流れからこれが空海の説く「因果」なのかと思いました。
完:令和6年8月28日
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