「アーリーリタイアをして人生あがったね」と言われたことが何度かあります。
この「人生あがる」という表現は実は奥が深く時に違和感を覚えます。
その違和感は「働くことが美徳でありアーリーリタイアはそんな美徳を諦めた人生の”終わり”だ」という意味で使われた場合に感じたものです。
ただ、現実の人生はそんな単純なものでもないわけで、リタイアによって労働から解放されるのも”始まり”であるわけですし、リタイア後に自由に楽しく生き直すというのも”始まり”なわけです。
今日は「働くことが美徳」という世間の感覚と自分の感じ方のずれを少しバトルフィールドに例えながら綴ってみます。
「人生あがった」の2つのニュアンス
「人生あがった」という言い回しにはその状況で大きく2つがあります。
1つは「自分の幸せをゆっくり楽しめば良いよ」というポジティブな意味合いで新しい人生の始まりとするものです。
もう1つは「人生で成し遂げるべきことはもう何もない」といったネガティブ意味合いで、そこには「人生の充実」や「自由を手に入れた」という本来アーリーリタイアがもたらす前向きな意味合いもないばかりか「夢を捨てた人生」という終焉の意味あいだったりします。
それゆえ「働くことを終える」というだけのリタイアですが、そこには感情や価値観が絡むと捉え方が180度違うわけです。
そうしたニュアンスの違いの裏にある構造(価値観)を探ります。
人生あがったの裏にある2つの価値観
前者の「自分の幸せをゆっくり楽しめば良いよ」というポジティブな意味合いは、世の中は「自由を獲得するバトルフィールド」であり、一定の義務なり務めを終えれば自分の自由や理想を求めるのは良いとする考え方です。
いわば自由を大事にする「自由崇拝軍」なる思想です。
一方で後者の「人生で成し遂げるべきことはもう何もない」といった意味は、世の中は労働が全てでありまた美徳であり働くことこそ人生だという感覚です。
ですが現実には仕事で鬱になる人もいれば働くことだけが美徳でもありません。
なので働くことを強制したり美化することに対して当たり前ながら反対する人たちもいるわけです。
「搾取され続ける労働からは解放されるべき」といった、つまり世の中は「解放を獲得するバトルフィールド」と捉え、そこから脱出することを目的とする「労働解放軍」なる思想を持った人もいるわけです。
前者は理想郷を求め、後者は安全地帯を求め、少しばかり目的地の状態は違えど、ともに共通するのは「より良い状態を追求する」といった意欲です。
救いが必要な属性は
その意味では、自由を大事にする「自由崇拝軍」も搾取されり強制労働から脱出したい「労働解放軍」も、思想の違いであって生き方の違いではないと思います。
生き方の違いというのは、すでに脳死状態であったり思考がバグってしまって世の中の歯車化した生き方(をしている自分)に対し何も感じなくなった状態のことです。
それこそ1分間に80回ぐらい「ハアハア」と苦しい息づかいをする状態の非戦闘員なわけで、こうした状態こそ救い出さないとまずいわけです。
違和感の正体-自由崇拝軍
ということで違和感の正体とは所属軍で違いがあるかもしれませんが、僕は自由を大事にする「自由崇拝軍」にいるわけで(解放されることも大事ですがそこが中心ではない)、この観点から2つの違和感を指摘します。
それは①搾取者が言う場合、②搾取される戦闘員が言う場合、の2つです。
搾取側が言う場合
違和感の1つの正体は「労働解放軍」を阻止しようとする「搾取側」の人間が「オマエはもう上がったのか」と言うものです。
やはり世の中には無邪気に「労働は美徳」とした思想を広める人はいますし、そのなかには搾取しようと考えている人もいるわけです。
悪意を持った搾取者のロジックでいけば、労働市場から存在を消した僕の存在はもはや獲物としてハント(狩り)する対象でもないのかもしれません。
すると「オマエはもう上がったのか」は捨て台詞になるわけです。
かなりニッチな映画ですがキアヌリーブスが主演のコンスタンティンという悪魔祓い映画でのラストシーンでサタン役だったピーターストーメアがキアヌリーブス地獄に連れていこうとすることに失敗するかの場面と一緒です。
まあ実際は単純に「働くことは素晴らしいことなのになぜ上がったのか?」という意味で言ってるのでしょう。
いずれにしても考え方として僕は違和感を持ってしまう立場にいます。
搾取側と戦う労働解放軍が言う場合
違和感のも1つの正体はバトルに例えると「労働解放軍」として搾取側と「戦う民」による言葉です。
彼らは「解放を獲得するバトルフィールド」で戦っているので隠密によるスパイ作戦や荒野の砂漠の地下や奥深いジャングルでのゲリラ戦を得意としています。
そんな「労働解放軍」の戦闘員が「オマエはもう上がったのか」というのは「オマエは安全地帯に逃げ込んだのか?」という意味あいで同志同志の「暗号」として聞いてくるものです。
なので「自由を獲得するバトルフィールド」で戦ってきた僕とは同じ戦闘員ながら感覚は少し違います。
僕が違和感として感じるのは、配属部隊が違うだけのことであって、広くとらえれば同じ「自由解放軍」なわけです。
なので悪意のない解放軍の民からの「人生あがったのか」は「安全地帯に避難したのか?」という意味であって、それに対して僕は「所属違いだ」と答えるわけです。
まあでも人生上がるというのは、安全地帯に逃げ込むのも自由を追い求める旅にでるのも「終焉」ではなく「始まり」なわけです。
終わりに
以上、アーリーリタイア後に時に会話にでてくる「アーリーリタイアで人生あがった」というニュアンスについてバトルフィールドに例えてみました。
日本は働き続けることが美徳といった文化が根強く、やはりアーリーリタイアに対しては「早く人生から降りた」といったネガティブな見方が大半なのでしょう。
人生の意味を「働くこと」に重きを置いてしまうとアーリーリタイアは「終わり」となるわけですがリタイアすることが人生の終わりではありません。
ということで最後に僕の所属する「自由崇拝軍」の最高司令部から伝達された「生きる掟」をこっそり紹介します。
「人生とは、最後の瞬間まで新たな経験に心を開き続けことだ。」
だそうです。
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