「今年も良い年になりますように」。
そんな挨拶をかわしたこの数日、今年は違和感を覚えました。
だってわざわざ頑張って「良い年にする」と願う必要があるのか?
いまが良い状態なら1年過ぎれば「あー良い1年だった」で終わるのでは。
そう思ってしまったからです。
もちろん単なる時候の挨拶ですが、捉え方に変化があったと気が付きました。
こうした捉え方の変化はFIRE生活に起因するものですが、今日はその主たる理由を3つを綴りたいと思います。
プラスが無ければ良い年じゃない?
これまでの人生ではずっと、「良い年」とか「幸せ」とは、何かを成し遂げたり、良い状況へ改善することで得られると、そう思っていました。
新年に大きな目標を掲げたり「今年こそxxだ」と意気込んだりするのはそのためです。
ですが僕のFIRE後の2024年は「目標をあえて持たない」と過ごしました。
すると1年が過ぎてもやはり幸せだと感じたのです。
それは「今ある状態で満足しているなら、それがすでに幸せだ」というものであり、あえて意気込まなくても良いと思ったのです。
こうした心境変化を起こした原因はFIRE生活にあるのですが、それを具体的に3つほど取りあげたいと思います。
時間の余裕が生んだ気づき
1つは、仕事に縛られない自由な生活を送る中での「時間の余裕」です。
これまで気づかなかった日常の小さな幸せや自然な穏やかさを感じる瞬間が増えました。
仕事にあるような緊張感は皆無なので、目的なく街で歩いているときも何気ない瞬間が豊かに感じられたりします。
これは「今ここにある満足感」に気付くだけの時間の余裕や心の余裕があることで、それゆえ「もっと良い年にしよう」と無理をする必要を感じなくなったのです。
競争やプレッシャーからの解放
また、現役時代は成果を出し続けることや評価を得るためにいつも競争やプレッシャーにさらされていたのが大きいと思います。
FIRE生活を送る今はその枠組みから解放され「何かを成し遂げなければならない」という義務感は薄れました。
もちろん「成し遂げる」と似た義務感であり自分の役割はあります。
でもそれは「親孝行をしなきゃ」というものです。
競争のなかで目標を成し遂げ成果を出そうとする義務感とは根本的に違います。
なにしろ自分を育ててくれた親への「感謝の気持ち」からくる義務感(というか恩返し)は、自然と湧き出るものです。
今年も仕事を頑張って良い年にしようとか、自分を鼓舞奮闘させたり、仕事がうまくいくことを願うような必要はありません。
人生の有限性を実感
また、FIREによる時間的余裕や精神的余裕から、「時間の有限性」を強く意識するようになったことです。
人生の残り時間は限られていると思うと、あえて未来に向かって何かを追い求めるより「今この瞬間を大切に生きる」が大事だと感じます。
2024年は目標を持たず、そうした「今を楽しむ」に振りすぎたほどです(振りすぎでの反省や教訓はありますが)。
「時間の有限性」から「今この瞬間を楽しめる」を実践しつつあるなか、増々「良い年になりますように」と願うのはどこかピントが合っていない気がします。
終わりに
以上、新年に「今年もよい年になりますように」といった挨拶にも違和感を覚えるようになりましたが、そう感じるぐらい「もうすでに十分穏やかで満ち足りている」ということだと思います。
FIREがもたらしたメリットでもある、①時間の余裕や心の余裕、②競争やプレッシャーからの解放、③人生の有限性を実感、というのがそうさせる要因です。
もちろん現役時代なら「今年もよい年になりますように」と願って、目標を持って、それを叶えてという過ごし方がフィットするのだと思いますし、心穏やかに緩く過ごすセカンドライフは「すでに十分穏やかで満ち足りている」というのが良いと思います。
そんな心境変化を感じた2025年の正月でした。
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