アーリーリタイア生活はとても平坦です。
サラリーマン生活のような「貴重な週末」といった時間の緩急がないので、つい、時間の大切さを忘れてしまいます。
今日は「今という時間を大事にする」をリタイア生活のなかで痛感したお花見のエピソードを綴ります。
思い立って母親を花見に誘う自由
アーリーリタイア生活は時間を自由に使えるので、天気が良くて暖かい日には、ふと思い立って外出したりします。とくにこの季節は天気の移り変わりが激しいなか、たまたま先週のある平日、晴天で温暖で、お花見には絶好の条件が揃っていました。
近所の河津桜が見頃となっていたので、老齢の母を誘って花見に出かけました。
1年前の記憶
母親は少し認知症が進んでいますがお出かけするのは好きです。去年と同じく、車を駐車場に停め、桜並木をゆっくり歩きだしました。
すると母親が「去年もここで桜を見たね」と歩きながら言ったのです。
とても驚きました。
なぜなら母親の認知症は日常的に進行していて、例えば、1日前にかけた電話を覚えていなくて「久しぶりじゃないの。何していたの。」と言うぐらいです。
ですが「去年もここで桜を見た」と覚えていたのです。
この会話の流れでいけば普通は「じゃあ、来年もまた一緒に見に来ようね」となるのでしょう。
でもそうは言い出せませんでした。
「来年もまた来よう」と言えない理由
母親は元気ではありますが、この先、体調や記憶がどうなるかは分かりません。来年も同じように桜を見られるとは限らないので軽々しくは「来年もまた来よう」と言えない気持ちがありました。
来年の今頃、もし来れたとして、「去年もここで見たね」と言ってくれることを期待するのはなおさら難しい気もします。
あるいは、「来よう」と言うとこれなくなってしまうのでは?といった怖さもあります。
そんな複雑な思いの一方で、ある昔の単純な出来事も思い出しました。
子供たちが幼少の頃、旅行先で一緒に海にいって1日中遊びました。
すっかり疲れ果てるまで遊んだ子供たちに「そろそろ日も暮れるから帰ろうか」と言ったら「帰りたくない」と泣くのです。
その時は「来年もまた来ようね」と慰めました。
幼い子供なので、この会話も、海で遊んだ記憶も、すぐに忘れるかもしれません。でもあえて「来年も来よう」と言えるのです。だってまだまだ何年も先がありますからね。
これがやはり、若いことと老いたことの、将来が確実に来ることと来るかわからないことの、そんな違いなのかもしれません。
終わりに
僕は忙しかったサラリーマン生活も終えて、運よくアーリーリタイア生活の自由を味わえています。そうした自由があるから、平日の日中でも母親を誘って花見に行くこともできます。
ですが、いくら自由があっても、老齢の母親に「また来年も来よう」と言えない、そんな制約はあるわけで、それが余計に重く切なくなってしまいます。
そして行きつくのは「今という時間を大切にしよう」と、そんな次を期待しないささやかな抵抗で、2025年春の河津桜のお花見を終えました。
今週末は日本全国、暖かく晴れる日となるので、親孝行なり大切な人を誘って週末のお出かけをしてみてください。
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